【深夜喫茶アオト】第二夜 強がりブレンド
※これは完全なフィクションの短編小説です。
実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。
眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。
深夜喫茶アオト
第二夜 強がりブレンド
雨の夜は、喫茶アオトの扉が重くなる。
湿った木が膨らんで、いつもより少し強く引かないと開かない。
午前零時を二十分ほど過ぎたころ。
扉の向こうで、誰かが二度、取っ手を引いた。
三度目にようやく扉が開き、ベルが大きく鳴った。
「すみません」
入ってきた女性は、店に謝った。
肩まで濡れたベージュのコート。
片手には折り畳み傘。
もう片方の手には、仕事用らしい黒い鞄を抱えている。
「いらっしゃいませ」
俺がタオルを差し出すと、彼女はすぐに首を振った。
「大丈夫です」
一回目。
「コート、お預かりします」
「そのままで大丈夫です」
二回目。
「こちらの席、暖房が近いですよ」
「どこでも大丈夫です」
三回目。
彼女はカウンターのいちばん端に座り、濡れた髪を耳にかけた。
「何にしますか」
「一番苦いコーヒーをください」
「眠気覚ましですか?」
「いえ」
彼女は鞄を膝の上に置いたまま答えた。
「苦いものを飲みたい気分なだけです」
俺は深煎りの豆を挽いた。
静かな店内に、豆を砕く音が響く。
彼女はスマートフォンを伏せて置いた。
けれど、画面が光るたびに目を向けていた。
誰かからの連絡を待っているのか。
それとも、来てほしくない連絡を警戒しているのか。
深夜のカウンターでは、どちらもよく似た顔になる。
コーヒーを置く。
その隣に、角砂糖を三つ並べた。
彼女が眉を上げた。
「ブラックで飲みます」
「これは、さっきの分です」
「さっきの分?」
「大丈夫って、三回言ったので」
彼女はしばらく角砂糖を見つめた。
「言いました?」
「言いました」
「無意識でした」
「四回目ですね」
俺は角砂糖をもう一つ加えた。
彼女は呆れた顔をして、それから小さく笑った。
「変な店」
「よく言われます」
「大丈夫って言うたびに、砂糖が増えるんですか」
「今夜だけのルールです」
「このままだと飲めないくらい甘くなりますね」
「それくらい言っているということです」
彼女はコーヒーカップに口をつけた。
苦かったのだろう。
ほんの少しだけ顔をしかめた。
それでも、砂糖には手を伸ばさない。
「お仕事帰りですか」
「はい」
「遅くまでお疲れさまです」
「慣れているので、大丈——」
彼女は途中で言葉を止めた。
俺は角砂糖の入った容器に手を伸ばす。
「今のは最後まで言ってません」
「危なかったですね」
「見張られてるみたい」
「今夜だけです」
彼女はまた笑った。
最初に店へ入ってきたときより、呼吸が少し深くなっていた。
「今日、部下に泣かれたんです」
突然、彼女が言った。
俺は何も聞かず、続きを待った。
「仕事で失敗した子がいて。私がフォローしたんですけど、その子が『迷惑ばかりかけてすみません』って泣いてしまって」
「はい」
「だから、言ったんです。『大丈夫。私に任せて』って」
彼女はカップの中を見た。
「そのあと上司から電話があって、『君なら一人でも大丈夫だよね』って、別の仕事も回されました」
俺は角砂糖を一つ、皿の上に置いた。
彼女はそれを見て、苦笑した。
「それも数えるんですか」
「あなたが言ったわけではありませんが、同じ言葉なので」
「じゃあ、それもお願いします」
彼女が自分で、もう一つ角砂糖を加えた。
「母からも電話がありました。父の通院のことで。『あなたは昔からしっかりしてるから大丈夫よね』って」
三つ目を置く。
「弟からは、『姉ちゃんに任せておけば大丈夫』」
四つ目。
「友達には、『あなたは強いから大丈夫』」
五つ目。
白い角砂糖が、皿の上に小さな塔を作った。
彼女はそれを眺めながら言った。
「便利ですよね、私」
声は笑っていた。
でも、指先はカップの取っ手を強く握っていた。
「みんな、私に大丈夫って言えば、自分が安心できるんです」
俺は何も答えなかった。
「頼られるのは嫌いじゃないんです。本当に。仕事もできないより、できたほうがいい。家族の役に立てるのも嬉しい」
「はい」
「でも、ときどき思うんです」
彼女はそこで言葉を切った。
スマートフォンの画面が光った。
彼女は見なかった。
「私は、誰に大丈夫じゃないって言えばいいんだろうって」
外で、雨の音が強くなった。
窓を叩く雨粒が、しばらく彼女の代わりに話していた。
俺は小さなミルクピッチャーを温め、カウンターに置いた。
「ブラックで飲むって言いました」
「知っています」
「じゃあ、これは?」
「苦すぎたときのためです」
「これを入れたら、負けたみたいで嫌です」
「苦さを薄めても、今日頑張ったことまで薄くなりませんよ」
彼女が俺を見る。
「そういうこと、平気で言うんですね」
「喫茶店なので」
「関係あります?」
「深夜喫茶なので」
彼女は息を漏らして笑った。
そして、ミルクピッチャーを手に取った。
黒いコーヒーの中に、白いミルクが静かに落ちる。
一度沈み、ゆっくり広がり、二つの色の境目がなくなっていく。
彼女はスプーンで一度だけ混ぜた。
今度は顔をしかめずに飲んだ。
「おいしい」
「よかったです」
「最初からこっちにすればよかった」
「最初に苦いのを選んだから、わかったことかもしれません」
「何がですか」
「今夜は、苦くなくてもいいってことです」
彼女はカップを両手で包んだ。
しばらくして、ぽつりと言った。
「本当は今日、誰かに迎えに来てほしかったんです」
俺は彼女を見る。
「残業が終わったら、駅の前に誰かがいて。『お疲れ』って言って、鞄を持ってくれて。何があったか聞かずに、一緒に帰ってくれたらいいのにって」
「はい」
「でも、そんな人いないから」
また「大丈夫」と続けそうになって、彼女は口を閉じた。
俺は手を差し出した。
「鞄、お預かりします」
「え?」
「帰るまでの間だけ」
彼女は膝の上の黒い鞄を見る。
店に入ってから一度も離さなかった、重そうな鞄。
「中にパソコンが入ってます」
「丁寧に扱います」
「資料も入ってます」
「見ません」
「結構、重いですよ」
「持てます」
彼女は迷ったあと、鞄を俺に渡した。
それをカウンターの内側に置く。
たったそれだけなのに、彼女の肩が目に見えて下がった。
「軽い」
彼女が言った。
「鞄ですか?」
「私が」
その声は少し震えていた。
俺は気づかないふりをして、コーヒーのおかわりを用意した。
泣きそうな人に「泣いていい」と言うのは、ときどき乱暴だ。
涙には、その人自身のタイミングがある。
だから俺は、ただ尋ねた。
「今日は、大丈夫じゃなくても困る人はいませんか」
彼女は首をかしげた。
「ここには、俺しかいません」
「あなたが困るでしょう」
「困りません」
「面倒じゃないですか」
「お客様がコーヒーを飲んでいるだけですから」
「でも、もし泣いたら」
「ナプキンは多めにあります」
彼女の目から、一滴だけ涙が落ちた。
すぐに拭こうとしたので、俺は紙ナプキンの箱をそっと近づけた。
「一枚で大丈夫です」
彼女はそう言って、止まった。
俺は角砂糖の容器に手をかける。
「それも数えるんですか」
「どうしましょう」
「今のは……取り消します」
「承知しました」
彼女は泣きながら笑った。
泣き声を押し殺すような静かな涙だった。
きっと今までも、ひとりになってから泣く人だったのだろう。
誰かに心配をかけないように。
誰かの予定を乱さないように。
誰かが安心して彼女を頼れるように。
強い人というのは、壊れない人ではない。
壊れたことに気づかれない速さで、自分を直してしまう人だ。
けれど、毎回ひとりで直さなくてもいい。
少なくとも、今夜くらいは。
雨が弱くなったころ、彼女は席を立った。
目元は少し赤かったけれど、入ってきたときより表情は柔らかかった。
俺は預かっていた鞄を渡す。
「やっぱり重いですね」
彼女が言う。
「何が入っているんですか」
「仕事と、責任と、期待です」
「それは重いですね」
「あと、化粧ポーチ」
「それが一番重そうです」
「失礼ですね」
彼女は笑って、鞄を肩にかけた。
扉の前まで行ってから、振り返る。
「このコーヒー、名前はあるんですか」
「今、つけてもいいですか」
「どうぞ」
「強がりブレンド」
「そのままですね」
「わかりやすいほうがいいかと」
「次に来たときも、頼めます?」
「もちろん」
「今度は最初からミルクをください」
「砂糖は?」
彼女はカウンターの上に残った角砂糖の塔を見た。
「その日の“大丈夫”の回数で」
「かなり甘くなるかもしれません」
「そのときは、半分飲むのを手伝ってください」
俺は笑った。
「はい。喜んで」
扉のベルが鳴る。
彼女は雨上がりの路地へ歩いていった。
カウンターには、飲み終えたカップと、使われなかった角砂糖が残っている。
俺は白い塔を一つずつ崩しながら思った。
「大丈夫」は、優しい言葉だ。
けれど、ときどきそれは、強い人をひとりにする。
だから、喫茶アオトでは聞くことにしている。
本当に大丈夫ですか、と。
答えが「大丈夫じゃない」でも、何も困らない。
深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いています。
強がるのに疲れた夜に、どうぞ。