蒼人

【深夜喫茶アオト】第九夜 理由のない夜

※これは、完全なフィクションの短編小説です。


実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。


眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。


【深夜喫茶アオト】


第九夜 理由のない夜


午前一時を少し過ぎた頃、雨は降っていなかった。


それでも窓の外の道路は、昼の名残を薄く濡らしたみたいに光っていた。


俺はカウンターの内側で、最後の一枚になった布巾を畳んでいた。


古い時計の針だけが、店内の静けさを少しずつ削っていた。


そのとき、入口のベルが小さく鳴った。


振り向くと、黒いコートの女性が立っていた。


傘は持っていなかった。


髪の先にだけ、夜風の冷たさが残っていた。


「まだ、いいですか」


「もちろん」


俺はカウンターの端の席を手で示した。


彼女は鞄を膝の上に置き、少しだけ息を吐いた。


急いで来たわけでも、迷って来たわけでもなさそうだった。


ただ、どこかへ帰る途中で、帰ることを少し遅らせたような顔をしていた。


「何にしましょう」


「眠くならないもの、ありますか」


「眠りたいわけじゃないんですね」


彼女は目を伏せて、小さく笑った。


「眠れない理由が、今日はないんです」


俺は頷いて、深煎りの豆を挽いた。


ミルの音が、夜の底にゆっくり沈んでいった。


理由がない眠れなさは、理由がある夜より扱いに困ることがある。


どこも痛くないのに、どこかに手を置いていてほしい夜がある。


湯を細く落とすと、粉がふくらんだ。


湯気が立ち、彼女の眼鏡をほんの少し曇らせた。


「ブラックで大丈夫ですか」


「はい。でも、苦かったら砂糖を入れます」


「それくらいでいいと思います」


カップを置くと、彼女は両手で包むように持った。


すぐには飲まなかった。


店内には、冷蔵庫の低い音と、外を通るタクシーの水っぽい走行音だけがあった。


「変ですよね」


「何がですか」


「悲しいこともないのに、誰かのいる場所に来たくなるの」


俺はカップを拭く手を止めなかった。


「変じゃないですよ」


彼女は少しだけ肩の力を抜いた。


「理由があると、説明しなきゃいけない気がするんです」


「理由がないなら、説明しなくていい」


「それ、楽ですね」


「楽な夜も、たまには必要です」


彼女はようやくコーヒーを口に運んだ。


眉がほんの少し寄った。


それから、砂糖を一つ入れた。


スプーンがカップの内側に当たり、控えめな音を立てた。


「甘くしたら、負けた気がするかと思ったけど」


「勝ち負けにするには、コーヒーは小さすぎます」


彼女は声を立てずに笑った。


その笑い方で、さっきまで彼女のまわりにあった薄い膜が少しゆるんだ。


二人でしばらく黙っていた。


沈黙は、気まずいものではなかった。


湯気がほどけて、棚のグラスが街灯を細く返していた。


「誰かと話したかったわけでもないんです」


「はい」


「でも、一人でいるには静かすぎた」


俺は新しい湯を沸かしながら聞いていた。


答えを急がないほうが届く言葉がある。


「ここ、音がちょうどいいですね」


「古い店なので、いろいろ鳴ります」


「そういうの、助かります」


彼女は窓の外を見た。


遠くの信号が赤から青に変わった。


誰も渡らない横断歩道が、少しだけ明るくなった。


「明日になったら、また普通にできると思うんです」


「今夜は、普通じゃなくてもいい」


彼女は何かを言いかけて、やめた。


その代わりに、カップの底に残った甘いコーヒーをゆっくり飲み干した。


午前四時半、空の色がほんの少し薄くなった。


俺は小さなトーストを一枚焼いた。


注文されたわけではなかった。


けれど彼女は、皿を見て何も聞かなかった。


バターが溶けて、端から静かに染み込んでいった。


「朝って、ちゃんと来るんですね」


「だいたい、遅刻せずに来ます」


「えらいですね」


「朝に言っておきます」


彼女は今度はちゃんと笑った。


始発の時間が近づくと、彼女は鞄から財布を出した。


指先の動きは、入ってきたときより少しだけゆっくりだった。


「また、理由がない日に来てもいいですか」


「もちろん」


「何も話さなくても」


「そのための席もあります」


彼女はカウンターの端を一度見てから、扉へ向かった。


ベルが鳴り、朝の冷たい空気が店内に入った。


外の道は、もう夜だけのものではなくなっていた。


彼女の背中が駅のほうへ小さくなっていく。


俺は空になったカップを下げた。


底に砂糖の白い跡が少し残っていた。


深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いている。

【深夜喫茶アオト】第九夜 理由のない夜