【深夜喫茶アオト】第十夜 置いていく薄手のコート
※これは、完全なフィクションの短編小説です。
実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。
眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。
【深夜喫茶アオト】
第十夜 置いていく薄手のコート
午前一時を過ぎた頃、雨が細くなった。
窓の外で、濡れた信号だけが赤く息をしていた。
俺はカウンターの奥で、乾いたカップを一つずつ棚に戻していた。
季節の変わり目は、音が少しやわらかくなる。
氷の溶ける音も、湯の沸く音も、どこか遠慮がちだった。
扉のベルが、小さく鳴った。
入ってきた人は、薄手のベージュのコートを腕に抱えていた。
着るにはまだ早く、持つには少し邪魔そうなコートだった。
「まだ、開いてますか」
「始発までなら」
そう言うと、その人は少しだけ笑った。
笑ったというより、ほどけたと言ったほうが近かった。
「あたたかいもの、ください」
「珈琲で大丈夫ですか」
「はい。苦すぎないやつで」
俺は湯を細く落とした。
豆がふくらんで、店の中に丸い香りが広がった。
その人はカウンターの端に座り、抱えていたコートを隣の椅子に置いた。
まるで誰かを座らせるみたいに、丁寧な置き方だった。
「それ、着てこなかったんですね」
俺が言うと、その人はコートを見た。
「着てくるつもりだったんです」
雨粒が、袖口にいくつか残っていた。
「でも、途中で暑くなって」
「季節って、たまに追いかけてきますからね」
「追いかけてくるんですか」
「置いてきたつもりのものほど、足が速い」
その人はカップに両手を添えた。
湯気が指先のあいだを上がっていった。
「昔の自分みたいですね」
その声は、雨よりも静かだった。
俺は返事を急がなかった。
店内では時計の針が、ひとつ先の時間を探していた。
「今日、部屋の片付けをしてたんです」
「眠れない夜にする片付けは、だいたい長くなります」
「本当に。写真とか、手紙とか、捨てるつもりじゃないものばっかり出てきて」
カップの縁に、その人の息が白く曇った。
「捨てられましたか」
「少しだけ」
「少しだけでも、重い日があります」
その人はうなずいた。
「前の自分に、悪い気がして」
雨がまた窓を撫でた。
俺はミルクピッチャーをそっと置いた。
「悪いと思えるくらい、大事にしてきたんでしょうね」
「大事にしてたのかな」
「雑にしてたものには、そんなに謝れないです」
その人は何も言わず、珈琲をひと口飲んだ。
眉間が少しゆるんだ。
「苦くない」
「今夜は、それくらいでいいかと思って」
「そういうの、ずるいですね」
「店主の特権です」
少しだけ、空気が笑った。
しばらくして、その人は鞄から古い鍵を出した。
小さな鈴がついた、年季の入った鍵だった。
「もう住んでない部屋の鍵です」
「返しそびれたんですか」
「返したはずなのに、予備が出てきて」
鍵はカウンターの灯りを受けて、鈍く光った。
「持ってると、まだ戻れる気がして」
「戻りたいんですか」
その人はすぐには答えなかった。
外を走るタクシーの音が、雨の上を滑っていった。
「戻りたいんじゃなくて、戻れるって思っていたかったんだと思います」
俺は布巾をたたんだ。
「思っているだけで、越えられる夜もあります」
「でも、もう越えた夜まで持って歩かなくていいですよね」
その人は鍵を指先で包んだ。
泣いてはいなかった。
けれど、目元に残った力が、少しずつ抜けていくのが見えた。
「明日、管理会社に送ります」
「明日でいい」
「今日じゃなくていいんですか」
「別れにも、湯冷ましの時間はいる」
その人はまた笑った。
今度は、ちゃんと笑っていた。
三時を過ぎると、雨はやんだ。
道路の黒い水たまりに、看板の灯りが細く伸びていた。
俺は二杯目に、ほうじ茶を淹れた。
その人はコートを膝に乗せ、袖を撫でていた。
「これも、もう着ないかもしれない」
「置いていくんですか」
「いえ。持って帰ります」
「はい」
「でも、過去の私のものとしてじゃなくて、明日の私の荷物として」
その言い方が、少し不器用でよかった。
新しい言葉は、たいてい着慣れない服みたいに肩が浮く。
それでも、着ていくうちに身体になじむ。
始発の少し前、空が灰色にほどけ始めた。
その人は会計を済ませ、コートに袖を通した。
さっきより、よく似合っていた。
「また、眠れない日に来てもいいですか」
「眠れる日の帰り道でも」
「じゃあ、どっちかの日に」
扉のベルが鳴り、朝の湿った風が店に入った。
その人の背中は、少しだけ軽そうだった。
カウンターには、鍵の形をした小さな水滴だけが残っていた。
俺はそれを拭き取り、新しい湯を沸かした。
季節は、いつも急には変わらない。
人もたぶん、そうだ。
それでも朝は来る。
置いていくものと、持っていくものを、少しずつ選びながら。
深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いている。