【深夜喫茶アオト】第十二夜 雨音の約束
※これは、完全なフィクションの短編小説です。
実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。
眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。
【深夜喫茶アオト】
第十二夜 雨音の約束
午前一時を少し過ぎたころ、雨が強くなった。
看板の灯りに、細い雨粒が白く浮かんでいた。
俺はカウンターの内側で、洗い終えたカップを拭いていた。
店内には古い時計の音と、湯を沸かす小さな音だけがあった。
扉の鈴が、遠慮がちに鳴った。
傘を持たない女の人が、入口で立ち止まっていた。
肩先が少し濡れていて、髪の先から雫が落ちた。
「雨宿りだけでも、大丈夫ですか」
俺は布巾を置いて、頷いた。
「もちろんです。温かいものでも淹れましょうか」
彼女は迷うように店内を見て、それから小さく笑った。
「じゃあ、コーヒーを。苦くないやつで」
俺は豆を少し浅めに挽いた。
ミルの音が、雨音に混ざった。
彼女は窓際の席に座り、濡れた指先をハンカチで押さえていた。
外の道路には、誰かが置き忘れたビニール傘が転がっていた。
「こういう時間に開いてる喫茶店、まだあるんですね」
「眠れない人には、夜の灯りが要る日もありますから」
彼女はカップを両手で包んだ。
湯気が頬の前でほどけた。
「昔、似たような店で待ち合わせをしたことがあるんです」
俺は返事を急がず、カウンターの端に水のグラスを置いた。
「約束、ですか」
「はい。二十歳になったら、夜明けのコーヒーを飲みに行こうって」
雨が少しだけ強くなった。
窓の向こうで信号の赤が滲んだ。
「その人とは、行けなかったんですけど」
彼女はそう言って、笑うでもなく、泣くでもなく、カップの縁を見ていた。
俺は新しい湯を細く落とした。
香りが静かに立ち上がった。
「約束って、叶わなかったら消えるものなんでしょうか」
「消えるものもあるし、形を変えて残るものもあると思います」
彼女は少しだけ顔を上げた。
「形を変えて」
「誰かと交わした言葉が、あとで自分を連れてくることがあります」
店の奥で冷蔵庫が低く鳴った。
彼女はコーヒーをひと口飲んだ。
「苦くないですね」
「今日は雨が強いので」
「雨と味って、関係ありますか」
「少しだけ、あることにしています」
彼女はそこで初めて、声を出さずに笑った。
その笑い方は、長く閉めていた窓を少し開けるみたいだった。
「本当は、忘れたふりをしてたんです」
俺は頷いた。
「忘れたふりも、必要な夜があります」
「でも今日、駅のホームで雨を見てたら、急に思い出して」
彼女は窓の雨を見た。
「あの約束、まだどこかで待ってる気がしたんです」
俺はカップに少しだけコーヒーを足した。
「今夜、ここまで来たなら、待ち合わせには間に合ったのかもしれません」
彼女は何も言わなかった。
ただ、両手の力が少し抜けたように見えた。
雨音は、さっきより丸くなっていた。
午前三時を回るころ、彼女は小さなメモ帳を取り出した。
ページの端は古く、雨に濡れた跡があった。
「ここに、約束を書いてたんです」
差し出された紙には、薄い文字で喫茶店とだけ書かれていた。
「場所も時間も、ちゃんと決めてなかったんですね」
「だから、今夜ここでよかったんだと思います」
彼女はそう言って、メモ帳を閉じた。
窓の外が、ほんの少し青くなり始めた。
始発まで、あと少しだった。
俺は最後に、温かい水をグラスへ注いだ。
彼女はコートを羽織り、入口で振り返った。
「また、雨の日に来てもいいですか」
「雨じゃなくても、開いています」
鈴が鳴り、朝の匂いが店に入った。
彼女の背中は、来たときより少しだけまっすぐだった。
カウンターに戻ると、カップの底に薄い琥珀色が残っていた。
俺はそれを眺めてから、静かに流しへ運んだ。
叶わなかった約束にも、座る席くらいはあっていい。
深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いている。