蒼人

【深夜喫茶アオト】第一夜 誕生日のショートケーキ

※これは完全なフィクションの短編小説です。

実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。

眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。


【深夜喫茶アオト】第一夜 誕生日のショートケーキ


深夜二十三時になると、喫茶アオトの看板に灯りが入る。

昼間は誰にも見つからないような細い路地の奥。

古いビルの二階。

階段を上がると、木の扉に小さな真鍮の札がかかっている。

《深夜喫茶アオト》

営業時間は、二十三時から始発まで。

メニューは少ない。

珈琲。

紅茶。

ミルクティー。

それから、眠れない人のための甘いものを少し。

その夜、最初のお客様は、日付が変わる少し前にやってきた。

扉のベルが、ちいさく鳴る。

「いらっしゃいませ」

俺が声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。

黒いコート。

きれいに巻かれた髪。

でも、目元だけが少し疲れている。

きっと今日一日、誰にも疲れていると気づかれないようにしていた人だと思った。

「まだ、やってますか」

「もちろん」

「よかった」

彼女はそう言って、カウンターのいちばん端に座った。

深夜の喫茶店では、最初からたくさん話す人は少ない。

みんな、言葉を持って来るまでに少し時間がかかる。

だから俺は、急かさない。

「温かいものにしますか」

「はい。甘いのがいいです」

「じゃあ、ミルクティーにしましょう」

湯気の立つカップを置くと、彼女は両手で包むように持った。

爪はきれいに塗られていた。

誰かに見せるためというより、自分を崩さないための色に見えた。

しばらくして、彼女が小さく言った。

「今日、誕生日なんです」

「おめでとうございます」

俺がそう言うと、彼女は笑った。

でもそれは、嬉しい笑い方じゃなかった。

「ありがとうございます。今日、初めて言われました」

その一言で、店の中の時計の音が少し大きくなった気がした。

「誰にも?」

「はい。職場では言ってないので。家族からは昼にスタンプだけ。友達には、なんか今さら自分から言うのも変で」

彼女はカップの中を見つめた。

「大人になると、誕生日って、扱いに困りませんか」

「わかります」

「祝ってほしいって言うほど子どもじゃない。でも、何もないと、少しだけ寂しい」

「子どもじゃなくても、祝われたい日はありますよ」

彼女はその言葉に、少しだけ目を伏せた。

俺は冷蔵ケースから、小さなショートケーキを出した。

閉店前に残っていた、いちごがひとつ乗ったケーキ。

皿に移して、細いろうそくを一本立てる。

「え」

「よかったら」

「そんな、悪いです」

「今日のために残ってたことにしましょう」

「そんな都合のいいことあります?」

「深夜喫茶なので」

彼女が初めて、少し本当に笑った。

ライターで火をつける。

小さな炎が、彼女の瞳の中で揺れた。

「お名前、聞いてもいいですか」

彼女は少し迷ってから、自分の名前を教えてくれた。

俺はその名前を、できるだけ丁寧に呼んだ。

「お誕生日おめでとうございます」

その瞬間、彼女の唇が少しだけ震えた。

泣かないようにしている人の顔だった。

泣きたいのに、まだ泣く許可を自分に出せていない人の顔。

俺は何も言わなかった。

慰めるのが早すぎると、涙は戻ってしまうことがある。

だから、ただケーキ用のフォークを置いた。

「願いごと、しますか」

「今さらですか」

「今からでも」

彼女はろうそくを見つめた。

「じゃあ……来年の誕生日は、もう少し自分を雑に扱わないようにしたいです」

「いい願いですね」

「願いっていうか、反省ですね」

「反省でも、願いにしていいと思います」

彼女は小さく息を吸って、ろうそくの火を吹き消した。

ふっと暗くなって、すぐに店の灯りが戻る。

たったそれだけのことなのに、彼女は少しだけ別人みたいに見えた。

誰にも祝われなかった一日が、最後の最後で、ちゃんと誕生日になったような顔だった。

ケーキを一口食べて、彼女は言った。

「甘い」

「甘すぎました?」

「いえ。今日くらい、甘くていいです」

それから彼女は、仕事のことを少し話した。

最近、笑い方が上手くなりすぎたこと。

頼られるのは嫌いじゃないけど、ときどき誰かに頼りたくなること。

誕生日なのに、自分で自分に何も買わなかったこと。

俺は相槌を打ちながら、ミルクティーを注ぎ足した。

深夜の喫茶店でできることは、多くない。

過去は変えられない。

明日の仕事を代わることもできない。

寂しさを全部消すこともできない。

でも、ひとつだけできることがある。

その人が自分を雑に扱いそうになった夜に、

「今日はそれをしなくていい」と伝えること。

彼女が帰るころ、外はまだ暗かった。

「また来てもいいですか」

扉の前で、彼女が聞いた。

「もちろん」

「誕生日じゃなくても?」

「誕生日じゃない日のほうが、多いですから」

彼女は笑った。

今度は、少しだけ軽い笑い方だった。

「じゃあ、また眠れない日に」

「はい。眠れない日に」

扉のベルが鳴って、彼女は夜の路地へ戻っていった。

カウンターには、空になったカップと、ケーキ皿と、短くなったろうそくが一本。

俺はそれを片づけながら思った。

大人になると、誰かに祝ってほしいと言えない夜がある。

甘えたいと言えない夜がある。

寂しいと認めるだけで、負けた気がする夜がある。

でも本当は、たぶん逆だ。

ちゃんと寂しいと言える人は、まだ自分を諦めていない。

深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いています。

眠れない夜に、どうぞ。