【深夜喫茶アオト】第三夜 泣けない夜のミルクティー
※これは完全なフィクションの短編小説です。
実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。
眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。
【深夜喫茶アオト】
第三夜 泣けない夜のミルクティー
深夜一時を過ぎたころ、喫茶アオトの電話が鳴った。
店に電話がかかってくることは、ほとんどない。
予約制ではないし、席が埋まるほど混むこともない。
迷った人が場所を尋ねてくるか、酔った誰かが番号を押し間違えるくらいだ。
「はい、喫茶アオトです」
電話の向こうからは、何も聞こえなかった。
ただ、街の音だけがしている。
車が通り過ぎる音。
信号機の電子音。
遠くで誰かが笑う声。
「もしもし」
しばらくして、女性の声がした。
「あの」
「はい」
「まだ、開いてますか」
「始発まで開いています」
「今から行ってもいいですか」
「もちろんです」
「……泣かなくても、入れますか」
俺は少しだけ間を置いた。
「喫茶店なので、泣くかどうかは自由ですよ」
電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。
「よかった」
通話はそこで切れた。
彼女が来たのは、それから十五分ほど後だった。
扉のベルが鳴る。
入ってきた女性は、紺色のコートを着ていた。
髪も服もきちんとしていて、化粧も崩れていない。
泣いていたようには見えなかった。
むしろ、泣かないためにすべてを整えてきたように見えた。
「先ほどのお電話の方ですか」
「はい。すみません、急に」
「いらっしゃいませ」
彼女は店内を見回し、カウンターの真ん中に座った。
「何か温かいものをお願いします」
「コーヒーと紅茶、どちらがいいですか」
「紅茶で」
「ストレートにしますか」
彼女は少し考えた。
「甘いミルクティーにしてください」
俺は鍋にミルクを入れた。
弱い火にかけながら、茶葉を量る。
彼女はスマートフォンをカウンターに置いた。
画面は下向きだった。
それでも、何度も指先で触れている。
裏返そうとして、やめる。
電源を切ろうとして、やめる。
連絡を待っている人の仕草ではなかった。
連絡が来ないことを、何度も確かめている人の仕草だった。
「熱いので、気をつけてください」
カップを置く。
ミルクティーの表面から、白い湯気が立った。
彼女はカップに触れずに言った。
「今日、別れたんです」
「そうでしたか」
「五年、付き合っていました」
俺は何も言わず、続きを待った。
「結婚すると思ってたんです。ちゃんと約束したわけじゃないけど、五年も一緒にいたら、普通そう思いますよね」
「そう思うと思います」
「でも彼、来月結婚するんですって」
彼女は笑った。
乾いた、上手な笑い方だった。
「私じゃない人と」
ミルクティーの湯気が、彼女の顔の前でゆっくり消えていく。
「二年くらい前から、他にも付き合っている人がいたみたいです。そっちの人が妊娠したから、結婚するって」
「今日、聞いたんですか」
「はい」
「直接?」
「メッセージで」
彼女は伏せていたスマートフォンを裏返した。
画面には、短い文章が表示されていた。
謝っているようにも、言い訳しているようにも見える文面。
彼女はすぐに、また画面を伏せた。
「会って話したいって送ったんです。でも、返事がない」
「はい」
「電話も出ない」
「はい」
「たぶん今、向こうの人と一緒なんですよね」
彼女はようやくカップを持ち上げた。
一口飲む。
「甘い」
「甘すぎましたか」
「いいえ」
彼女はまた笑った。
「私、今日は泣くつもりだったんです」
「電話でも言っていましたね」
「家に帰ったら泣こうと思って。お風呂に入って、化粧を落として、思い切り泣こうって」
「泣けませんでしたか」
「一滴も」
彼女は自分の目元を指で触った。
「ショックが大きすぎると、涙って出ないんですかね」
「そういうこともあると思います」
「それとも、そんなに好きじゃなかったのかな」
その言葉だけ、少し声が揺れた。
俺はカウンターの内側から、小さな蜂蜜の瓶を出した。
「もう甘いです」
「これは飲み物用じゃありません」
「何に使うんですか」
「今、考えます」
彼女が少しだけ笑った。
俺は小皿に蜂蜜を垂らし、スプーンを添えた。
「悲しいかどうかを、涙で決めなくてもいいと思います」
彼女は蜂蜜の皿を見る。
「でも、泣けないと実感がないんです」
「五年一緒にいた人に裏切られて、それでも店まで来て、甘いミルクティーを頼んで、連絡が来ていないか何度も確認している」
俺は彼女を見る。
「十分、悲しんでいるように見えます」
彼女は何も言わなかった。
「涙は、悲しみの証明書じゃないですよ」
店の時計が、一度だけ小さく鳴った。
彼女はミルクティーを見つめたまま言った。
「友達には、まだ言ってないんです」
「どうしてですか」
「みんな、前から彼のこと嫌ってたから」
「そうなんですね」
「言ったら絶対、『だから言ったじゃん』って言われる」
「それは今、聞きたくないですね」
「聞きたくないです」
「ご家族には?」
「言えません。母は彼との結婚を楽しみにしてたから」
「職場の人は?」
「明日も普通に仕事です」
彼女は指を折りながら数えた。
「だから、誰にも言えなくて」
それから、困ったように笑う。
「五年付き合ってたのに、別れたことを話せる人がいないって、変ですよね」
「変ではないですよ」
「寂しいです」
その言葉は、とても小さかった。
泣いてはいなかった。
でも、その夜初めて、彼女は笑わずに話した。
「寂しいですね」
俺がそう答えると、彼女は顔を上げた。
「励まさないんですか」
「励ましてほしいですか」
「わかりません」
「じゃあ、今はやめておきます」
「次はもっといい人がいるとか」
「今、聞きたいですか」
「聞きたくないです」
「五年が無駄じゃなかったとか」
「それも嫌です」
「彼より幸せになって見返そうとか」
「一番嫌です」
「承知しました」
彼女は少し声を出して笑った。
「何も言わないんですね」
「何も言わないほうがいい夜もあります」
俺はミルクティーのおかわりを鍋に入れた。
「今夜は、彼を許さなくていいし、自分を反省しなくてもいい。次の恋を考えなくてもいい」
ミルクを温める音が、小さく店内に広がる。
「ただ、嫌だったって言っていい夜です」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、少し強い声で言った。
「嫌でした」
「はい」
「ずっと私だけだと思ってた」
「はい」
「仕事が忙しいって言われたから、会いたいのも我慢した」
「はい」
「重いと思われたくなくて、寂しいって言わなかった」
「はい」
「私の誕生日、忘れてたくせに。向こうの人の誕生日には旅行に行ってた」
「それは嫌ですね」
「嫌です」
彼女はカウンターを見つめた。
「結婚するなら、せめて私と別れてからにしてほしかった」
「本当にそう思います」
「最後くらい、会って謝ってほしかった」
「はい」
「私が傷つくのが面倒だから、メッセージだけで終わらせたんです」
「卑怯ですね」
彼女が俺を見る。
「言っていいんですか、そんなこと」
「俺は彼を知りません。でも、今聞いた話については、そう思います」
彼女の顔が、少しずつ崩れた。
それでも、涙は出なかった。
代わりに、唇が震えた。
「私、怒ってたんですね」
「悲しいだけではなかったんですね」
「ずっと、悲しまなきゃって思ってた」
「怒ってもいいと思います」
「でも五年も好きだった人を、悪く言ったら」
「好きだったことと、傷つけられたことは、別にしていいですよ」
彼女は両手で顔を覆った。
泣いているように見えた。
でも、手を下ろした目元は乾いたままだった。
「やっぱり出ない」
「何がですか」
「涙」
「今夜は出ない日なのかもしれません」
「それでもいいですか」
「もちろん」
俺は二杯目のミルクティーを置いた。
彼女は今度はすぐに口をつけた。
「さっきより甘くない」
「同じ量です」
「じゃあ、私が変わったんですね」
「少し苦いことを言えたからかもしれません」
彼女はゆっくり飲んだ。
しばらくして、スマートフォンが振動した。
彼女の肩が動く。
画面を見る。
数秒だけ眺めたあと、スマートフォンを伏せた。
「彼ですか」
「はい」
「何て?」
「『もう連絡しないでほしい』って」
俺は返す言葉を探した。
でも、彼女は静かだった。
「返事をしますか」
「しません」
「決めたんですか」
「今、決めました」
彼女はスマートフォンの電源を切った。
そして、カウンターの端に置いた。
「これで終わりです」
その声には、強さよりも疲れがあった。
終わらせられた人ではなく、ようやく終わったことを認めた人の声だった。
「寂しくなりますね」
「はい」
「明日、つらいかもしれません」
「はい」
「来週も、まだ好きかもしれません」
「……はい」
「それでもいいと思います」
彼女は少し目を細めた。
「ここでは、何でもいいって言うんですね」
「何でも、ではありません」
「違うんですか」
「あなたを傷つけること以外なら」
その瞬間だった。
彼女の目から、ようやく一粒だけ涙が落ちた。
頬を伝い、カウンターの上に落ちる。
彼女は驚いたように、自分の頬に触れた。
「出ました」
「出ましたね」
「なんで今なんでしょう」
「安心したのかもしれません」
「何に?」
「泣けなくてもいいと言われたことに」
彼女は笑いながら、次々と涙をこぼした。
「変ですね」
「変じゃないですよ」
「さっきまで、一滴も出なかったのに」
「涙も急かされるのが苦手なんでしょう」
俺は紙ナプキンの箱を近づけた。
彼女は一枚取り、目元を押さえた。
「化粧、ひどいですか」
「少しだけ」
「正直ですね」
「鏡は見ないほうがいいです」
「そんなに?」
「今夜は、見た目を気にしなくていい日です」
彼女は泣きながら笑った。
そのあとは、ほとんど話さなかった。
彼女は静かに泣き、俺は何度かミルクティーを温め直した。
涙が止まったころ、窓の外が少し青くなっていた。
始発が動き出す時間だった。
彼女は化粧室で顔を整え、店を出る前に振り返った。
「次に来たときも、ミルクティーにします」
「甘めにしますか」
「今日より少しだけ控えめで」
「少し元気になったということですか」
彼女は考えてから、首を振った。
「苦いものも、ちゃんと味わえるようになりたいから」
「わかりました」
「でも、しばらくは甘くしてください」
「もちろんです」
扉のベルが鳴る。
彼女は朝の街へ歩いていった。
カウンターには、空になったカップが二つ。
伏せられたまま忘れられたスマートフォンは、もうなかった。
俺はカップを洗いながら思った。
泣けない夜がある。
泣かなければいけないと思うほど、涙が遠ざかる夜がある。
悲しみ方には、正解がない。
怒ってもいい。
黙っていてもいい。
まだ好きでもいい。
忘れられなくてもいい。
涙は、出たくなったときに出ればいい。
深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いています。
泣けない夜に、どうぞ。