蒼人

【深夜喫茶アオト】第十三夜 いつもと違うホットココア

※これは、完全なフィクションの短編小説です。


実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。


眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。


【深夜喫茶アオト】


第十三夜 いつもと違うホットココア


木曜日の夜は、雨の匂いで始まった。


日付が変わる少し前、俺はカウンターの端でカップを拭いていた。


窓の外では、細い雨が街灯の光をほどいていた。


深夜喫茶アオトの時計は、十二時を少し過ぎていた。


その人は、毎週木曜日に現れる。


決まって同じ席に座り、決まってブレンドを頼む。


砂糖は入れない。


ミルクも使わない。


苦いまま、少しずつ飲む人だった。


扉の鈴が、小さく鳴った。


「こんばんは」


濡れた傘を閉じながら、彼女はいつもの声で言った。


「こんばんは。今日は冷えますね」


俺は布巾を置き、カウンターの中から声を返した。


彼女はいつもの席に座った。


けれど、メニューを見る手が少しだけ迷っていた。


雨粒が肩先で光っていた。


「今日は、ブレンドじゃなくて」


そこで言葉が止まった。


店内には、やかんの湯が沸く前の低い音だけがあった。


「ホットココア、できますか」


俺は一度だけうなずいた。


「できますよ。甘さは控えめにしますか」


「いえ。今日は、ちゃんと甘くしてください」


その言い方が、少し照れたように聞こえた。


俺は小鍋に牛乳を注いだ。


火を弱くして、ココアをゆっくり溶かした。


甘い香りが、雨の匂いに混ざって広がった。


彼女は両手を膝の上に置いたまま、湯気の立つ手元を見ていた。


「いつもと違うものを頼むの、変ですか」


「変じゃないですよ」


俺はカップを温めながら答えた。


「同じものを好きでいる日もあれば、違うものに助けられる日もあります」


彼女は小さく笑った。


「助けられる、か」


ココアを注ぐと、表面にやわらかい泡が浮いた。


俺はカップを彼女の前へ置いた。


「熱いので、ゆっくりどうぞ」


彼女は両手でカップを包んだ。


すぐには飲まなかった。


「木曜日って、ずっと嫌いだったんです」


窓に雨が当たる音がした。


「週の真ん中を越えたのに、まだ終わってなくて」


「はい」


「でも、ここに寄るようになってから、木曜日が少しだけましになりました」


俺は返事を急がなかった。


彼女がカップに息を吹きかける。


白い湯気が、眼鏡の端を曇らせた。


「今日、ひとつ終わったんです」


「終わったんですね」


「はい。うまくいったわけじゃないけど、終われました」


彼女はココアをひと口飲んだ。


まぶたが少しだけ下がった。


「甘いですね」


「ちゃんと甘くしましたから」


「うん。今夜は、これでよかった」


店の奥で、古い冷蔵庫が短く鳴った。


それからまた、静かになった。


彼女はぽつりぽつりと話した。


頑張っていたこと。


手放すまで時間がかかったこと。


誰かに勝ちたかったわけではなかったこと。


俺は頷きながら、空いたグラスを磨いていた。


言葉は、ときどき雨音に隠れた。


けれど、隠れたままでいい言葉もある。


三時を過ぎる頃、雨は細くなっていた。


彼女のカップは空になっていた。


「来週は、またブレンドに戻すかもしれません」


「それもいいですね」


「でも、またココアにするかもしれません」


「それも、もちろん」


彼女は少し困った顔で笑った。


「同じじゃなくても、来ていいんですね」


俺は洗い終えたカップを棚に戻した。


「同じでも、違っても、席はあります」


その言葉に、彼女は何も返さなかった。


代わりに、深く息を吐いた。


始発の時間が近づくと、空の色がほんの少し薄くなった。


雨上がりの道路に、朝の光がにじんでいた。


彼女は傘を持ち、扉の前で振り返った。


「来週も、木曜日に」


「はい。温かいものを用意しておきます」


鈴が鳴り、冷たい朝の空気が一度だけ店に入った。


彼女の背中は、いつもより軽く見えた。


俺はカウンターに戻り、空のカップをひとつ洗った。


甘い香りが、まだ少し残っていた。


深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いている。

【深夜喫茶アオト】第十三夜 いつもと違うホットココア