蒼人

【深夜喫茶アオト】第四夜 また来てもいいですか

※これは、完全なフィクションの短編小説です。


実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。


眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。


【深夜喫茶アオト】


第四夜 また来てもいいですか


その夜、喫茶アオトには、珍しく誰も来なかった。


金曜日の二十三時。


看板に灯りを入れ、豆を挽き、湯を沸かす。


いつものようにカウンターを拭き、角砂糖の瓶を満たし、冷蔵ケースの中に小さなケーキを並べた。


それでも、扉のベルは鳴らなかった。


雨も降っていない。


終電が止まったわけでもない。


街には人の気配があるのに、この店だけが夜から取り残されたように静かだった。


午前零時。


午前一時。


時計の針が進むたび、店内に小さな音が落ちる。


誰も来ない夜は嫌いではない。


誰にも話しかけられず、誰の話も聞かず、珈琲の香りだけが漂う時間も悪くない。


それでも、扉のほうを何度も見てしまう。


誰かを待っているときの癖だった。


午前二時を少し過ぎたころ。


扉の向こうで、人影が止まった。


すぐには入ってこない。


木の扉に映った影が、近づいたり離れたりしている。


入るかどうか迷っているらしい。


俺は声をかけずに待った。


喫茶アオトでは、扉を開けるタイミングも、お客様が決める。


しばらくして、ベルが小さく鳴った。


「まだ、やってますか」


その声を聞いて、俺は顔を上げた。


黒いコート。


きれいに巻かれた髪。


両手で大切そうに抱えた、小さな白い箱。


一か月ほど前、誕生日の夜にこの店を訪れた女性だった。


「もちろん。始発まで開いています」


彼女は少し安心したように笑った。


「覚えてますか」


「ショートケーキの方ですよね」


「名前じゃなくて、ケーキで覚えてるんですね」


「お名前も覚えています」


俺が彼女の名前を呼ぶと、少し驚いた顔をした。


それから、照れたように目を伏せる。


「覚えてたんだ」


「忘れませんよ」


彼女は前と同じ、カウンターのいちばん端に座った。


白い箱を隣の席に置く。


「今日は、誕生日ではないんです」


「見ればわかります」


「どうしてですか」


「誕生日の人にしては、少し堂々としています」


「前はそんなに挙動不審でした?」


「少しだけ」


「恥ずかしい」


そう言って笑う顔は、初めて来た夜よりも柔らかかった。


目元に疲れは残っている。


それでも、誰にも気づかれないように必死で隠している感じはしなかった。


「何にしますか」


「ミルクティーをお願いします」


「甘めで?」


彼女は少し考えた。


「今日は、普通で」


「承知しました」


鍋にミルクを注ぐ。


火を弱くして、茶葉を量る。


彼女はその様子を眺めながら、白い箱を指で軽く叩いていた。


「今日は、どうしてここへ?」


俺が尋ねると、彼女は少し困った顔をした。


「それを考えてたんです」


「はい」


「何かあったわけじゃないんです」


「それはよかったです」


「仕事も普通でした。上司にはちょっと腹が立ったけど、いつものことだし。家族とも喧嘩してないし、失恋もしてない」


「はい」


「眠れないわけでもないんです」


「眠れそうですか」


「たぶん、家に帰ってベッドに入ったら、すぐ眠れると思います」


俺はミルクティーをカップに注いだ。


彼女の前に置く。


「では、なぜ?」


彼女は湯気の向こうから俺を見た。


「来ちゃだめでしたか」


「そんなことは言っていません」


「でも、この店って、眠れない人が来る場所でしょう?」


「看板には何も書いていませんよ」


「前に言ってました。眠れない夜にどうぞ、って」


「眠れる人はお断り、とは言っていません」


彼女はカップを両手で包んだ。


一口飲んで、小さく息を吐く。


「今日、仕事帰りにケーキ屋さんの前を通ったんです」


彼女は隣の白い箱を見た。


「前にここで食べたのと同じ、いちごのショートケーキが並んでいて」


「買ったんですね」


「はい。二つ」


「二つ?」


「一人で二つ食べるのは、さすがに寂しいので」


彼女は箱をカウンターに置き、こちらへ押した。


「一緒に食べてもらおうと思って」


「それで来たんですか」


「たぶん」


俺は箱を開けた。


いちごがひとつずつ乗った、小さなショートケーキが二つ並んでいる。


以前この店で出したものより、少し立派だった。


「今日は、ろうそくはありません」


「誕生日ではありませんからね」


「願いごともしません」


「しなくても大丈夫です」


「歌も歌わないでください」


「前も歌っていません」


「でも、歌いそうな顔をしてました」


「どんな顔ですか」


彼女は笑った。


俺はケーキを皿に移し、フォークを二本置いた。


カウンターを挟んで、一緒に食べる。


客が持ってきたケーキを店主が食べることが正しいのかは知らない。


けれど、深夜喫茶には、たまにメニューにない時間がある。


「おいしいですね」


俺が言うと、彼女は少し満足そうにうなずいた。


「自分で買ったケーキなのに、誰かがおいしいって言ってくれると嬉しいですね」


「一人で食べるのとは違いますか」


「違います」


「味が?」


「気分が」


彼女はフォークでいちごを半分に切った。


「前にここで、来年の誕生日は自分を雑に扱わないようにしたいって言ったの、覚えてますか」


「覚えています」


「あれから、少し練習してるんです」


「どんな練習ですか」


「疲れた日は、お惣菜を買う」


「大切ですね」


「残業を一回だけ断りました」


「それは勇気がいりますね」


「欲しかった靴も買いました」


「履いていますか」


彼女はカウンターの下で、片足を少し持ち上げた。


黒い革の靴。


小さな飾りがついている。


「似合っています」


「ありがとうございます」


彼女は嬉しそうに足を下ろした。


「それから、この前、友達に言ったんです」


「何を?」


「たまに寂しいって」


「言えましたか」


「はい」


彼女は少し笑う。


「そしたら友達も、『私も』って言ったんです」


「そうでしたか」


「ずっと、みんな平気なんだと思ってました。寂しいのは私だけで、私だけが大人になりきれてないんだと思ってた」


「案外、みんな上手に隠しています」


「あなたも?」


その質問に、俺は少しだけ考えた。


「俺もです」


「店主なのに?」


「店主でも」


「誰かの話を聞く人なのに?」


「聞く人にも、話したい夜はあります」


彼女は少し驚いたように俺を見た。


それから、ケーキを一口食べる。


「今日は、話しますか」


「何をですか」


「寂しいこと」


今度は俺が笑った。


「今日は、お客様の番では?」


「交代制じゃないでしょう」


「違いますね」


「話してもいいですよ」


彼女は何気なく言った。


特別なことをしているつもりはないようだった。


その言葉が、思っていたよりも温かかった。


この店では、いつも俺が聞く側だった。


泣きたい人の話を聞く。


強がる人の荷物を預かる。


言葉にならない気持ちが形になるまで待つ。


それが店主の仕事だと思っていた。


けれど、誰かを受け止めることと、自分が何も感じないことは違う。


店の灯りを消したあと、誰もいないカウンターを見て、少し寂しくなる夜もある。


「今日は、誰も来ないかもしれないと思っていました」


俺は言った。


「寂しかったですか」


「少しだけ」


「私が来て、よかったですか」


「はい」


彼女は満足そうにうなずいた。


「じゃあ、今日はそれでいいです」


「何がですか」


「私が来た理由」


彼女はミルクティーを飲んだ。


「眠れなかったからでも、悲しかったからでもなくて」


少し照れたように、カップの縁を指でなぞる。


「あなたに会いたかったから来た。それでいいですか」


「十分です」


「迷惑じゃないですか」


「迷惑なら、ケーキを半分も食べません」


皿の上には、もうクリームが少し残っているだけだった。


彼女が笑う。


「本当に食べましたね」


「甘いものは好きです」


「初めて知りました」


「聞かれなかったので」


「ほかにも、知らないことがありそう」


「たくさんあります」


「少しずつ聞いてもいいですか」


「営業時間内なら」


「店主として?」


「それ以外だと困りますか」


彼女は返事をしなかった。


ただ、少しだけ頬を赤くして、ミルクティーを飲んだ。


時計が午前三時を知らせる。


外を走る車の音が、少しずつ減っていった。


彼女は仕事の話をした。


新しく入った後輩が、思っていたよりも面白い人だったこと。


買った靴で歩いたら、少し足が痛くなったこと。


友達と来月、温泉に行く約束をしたこと。


何かを解決するための話ではない。


慰める必要も、正しい答えを探す必要もない。


ただ、今日あったことを誰かに話す。


それだけの時間だった。


深夜の喫茶店には、こういう夜も必要なのかもしれない。


つらい人だけが休める場所ではなくていい。


泣いている人だけが優しくされる場所でなくていい。


元気なときに来てもいい。


何も起きなかった日に、誰かの顔を見たくなって来てもいい。


彼女が席を立ったころ、窓の外が少しだけ明るくなっていた。


「今日は眠れそうですか」


俺が尋ねると、彼女はコートを着ながら答えた。


「よく眠れそうです」


「それはよかった」


「じゃあ、もう来る理由がなくなりますね」


「理由が必要ですか」


彼女は扉の前で振り返った。


「また来てもいいですか」


「もちろん」


「誕生日じゃなくても?」


「はい」


「寂しくなくても?」


「はい」


「眠れない夜じゃなくても?」


「ここが開いている時間なら」


彼女は少し考えてから言った。


「じゃあ、また会いたくなった夜に」


「お待ちしています」


扉のベルが鳴る。


彼女は朝の街へ歩いていった。


カウンターには、空になったカップが二つ。


ケーキの入っていた白い箱。


そして、使わなかった紙ナプキンが一枚。


泣かなかった夜のあとにも、片づけるものはちゃんと残る。


俺はカップを洗い、店内の灯りを少し落とした。


もうすぐ始発が動き出す。


喫茶アオトには、眠れない人が来る。


寂しい人が来る。


泣けない人や、強がることに疲れた人も来る。


でも、それだけではない。


話したいことがない人も。


元気な人も。


ただ誰かと甘いものを半分ずつ食べたい人も。


来る理由は、自分で決めていい。


理由なんてなくてもいい。


深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いています。


また会いたくなった夜に、どうぞ。