【深夜喫茶アオト】第六夜 いつもと違う注文
※これは、完全なフィクションの短編小説です。
実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。
眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。
【深夜喫茶アオト】
第六夜 いつもと違う注文
木曜の夜は、雨が多い気がする。
気のせいかもしれない。
けれど、深夜一時を過ぎた頃にガラスを叩く細い音を聞くと、俺はいつも同じ人の顔を思い浮かべる。
カウンターの端の席。
砂糖を入れない深煎り。
カップの取っ手を、少しだけ左に向ける癖。
その人は、今夜も傘を閉じて入ってきた。
「こんばんは」
「こんばんは。濡れましたね」
俺は乾いたタオルを一枚、カウンターの上に置いた。
彼女は小さく頭を下げて、いつもの席に座らなかった。
窓際の二人席に、コートを脱がずに腰を下ろした。
店内の時計が、静かに針を進めていた。
「今日は、何にしますか」
いつもの、と言う口の形を、俺は少しだけ待った。
彼女はメニューを開かず、外の雨を見た。
「ホットココア、ありますか」
「あります」
そう答えると、彼女は少し驚いた顔をした。
「喫茶店ですから」
俺が言うと、彼女は初めて笑った。
いつもより湯気のやわらかい夜になった。
小鍋で牛乳を温める。
底に沈むココアを、ゆっくり溶かした。
黒い粉がほどけて、甘い匂いがカウンターまで広がった。
彼女は両手を膝の上に置いたまま、何かを待っているようだった。
「苦いの、飲めなくなったんですか」
「飲めます」
「じゃあ、今日は甘いほうがよかったんですね」
「そうですね」
短い返事のあと、雨の音だけが残った。
俺はカップを彼女の前に置いた。
白い泡の上に、シナモンをほんの少し落とした。
「苦手なら、すぐ作り直します」
「大丈夫です」
彼女はカップを包むように持った。
指先が少し赤かった。
「木曜日って、戻る場所みたいで」
彼女は窓の向こうを見たまま言った。
「毎週ここで苦いのを飲んだら、まだちゃんとしてる気がしてたんです」
俺は布巾をたたんだ。
急いで相槌を打つ夜ではなかった。
「今日は、ちゃんとしなくてもいい日でしたか」
彼女はココアに息を吹きかけた。
「たぶん、そうです」
その声は弱くなかった。
ただ、少し荷物を置いた声だった。
「仕事、辞めるって言いました」
「そうですか」
「もっと泣くと思ったんですけど、帰り道でお腹が空いて」
「それは、体が先に安心したのかもしれませんね」
彼女はカップに口をつけた。
それから、ゆっくり瞬きをした。
「甘いですね」
「甘く作りました」
「ずるいです」
「木曜の雨の日くらいは」
彼女は声を立てずに笑った。
窓の外で、タクシーの灯りが水たまりを横切った。
店の奥で冷蔵庫が小さく鳴った。
いつもの深煎りの香りは、今夜だけ棚の中で眠っていた。
「来週も、違うの頼んでもいいですか」
「もちろん」
「毎週同じじゃなくても、覚えててもらえますか」
俺は洗い終えたスプーンを布で拭いた。
「席も、飲み物も、変わって大丈夫です」
彼女は頷いた。
それだけで、窓際の空気が少し軽くなった。
始発前の時間は、夜と朝の境目を隠すのがうまい。
雨はいつの間にか上がっていた。
彼女は空になったカップを両手でこちらへ寄せた。
「ごちそうさまでした」
「また、木曜日に」
そう言うと、彼女は傘を忘れそうになって振り返った。
「忘れるところでした」
「今日はそれくらいで、ちょうどいいです」
扉のベルが鳴った。
濡れた街に、薄い朝の色が混じり始めていた。
俺は窓際のカップを片づけた。
底に残った甘い香りが、少しだけ店に残った。
人は同じ場所に戻りながら、少しずつ違う自分で座る。
それでいいと、俺は思った。
深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いています。