【深夜喫茶アオト】第五夜 雨音の約束
※これは、完全なフィクションの短編小説です。
実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。
眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。
【深夜喫茶アオト】
第五夜 雨音の約束
午前一時を少し過ぎたころ、喫茶アオトの窓を雨が細く叩き始めた。
深夜の雨は、街の音を少しだけ遠くへ連れていく。
俺はカウンターの内側で、洗い終えたカップを伏せながら、その音を聞いていた。
ドアベルが鳴ったのは、ちょうど珈琲豆を量り直していた時だった。
入ってきた人は、傘を持っていなかった。
肩先と前髪に雨粒を乗せたまま、申し訳なさそうに入口で立ち止まった。
「すみません、雨が弱くなるまででも大丈夫ですか」
「もちろんです。始発まで開けていますから、急がなくて大丈夫ですよ」
その人は小さく会釈をして、窓際の席ではなく、カウンターの端に腰を下ろした。
濡れた袖口を気にしながら、両手を膝の上できゅっと重ねていた。
「温かいもの、甘くないほうがいいですか」
「はい。できれば、苦すぎないものを」
俺は深煎りを少し軽くして、湯をゆっくり落とした。
夜更けの店に広がる香りは、誰かの言葉を急かさないためにあるのかもしれない。
カップを置くと、その人は両手で包むように持った。
ひと口飲んで、目線だけを窓の雨へ戻した。
「昔、雨の日に約束したことがあったのを思い出して」
「雨は、忘れていたものを連れてくることがありますね」
その人は少し笑って、それから黙った。
無理に続きを待つ夜ではないと思った。
時計の秒針と雨音だけが、二人分の沈黙を細く縫っていく。
しばらくして、その人はぽつりと言った。
「大人になったら、また同じ場所で会おうって。たぶん、言ったほうも忘れてます」
「忘れていても、その時の気持ちまで嘘になるわけではないと思います」
その言葉が正しかったかどうかは、今でもわからない。
ただ、その人の指先から、カップを握る力が少し抜けたのは見えた。
雨は強くなったり弱くなったりしながら、夜の底を洗っていた。
俺は二杯目に、ほんの少しだけミルクを足した珈琲を出した。
「これは、約束を責めない味にしておきました」
「そんな味、あるんですね」
「今夜だけのメニューです」
その人は初めて、声を出して笑った。
笑い声は大きくなかったが、窓の曇りを少し晴らすくらいの温度があった。
午前四時半、雨はほとんど上がっていた。
遠くの空が墨色から薄い青へ変わり、始発前の街がそっと身支度を始めた。
その人は会計のあと、ドアの前で振り返った。
「約束って、守れなかったら終わりだと思ってました」
「守れなかった約束が、次に誰かへ優しくする理由になることもあります」
その人は返事の代わりに、深くうなずいた。
外へ出る背中には、もう雨粒はなかった。
残されたカップを片づけながら、俺は窓を少しだけ開けた。
雨上がりの空気が入ってきて、店の中に新しい朝の匂いが混ざった。
喫茶アオトは、深夜から始発までの小さな場所だ。
約束を叶える場所ではなくても、約束を責めずに置いていける場所であれたらいい。
そんなことを思いながら、俺は最後の珈琲を自分のために淹れた。