【深夜喫茶アオト】第七夜 綴る夜
※これは、完全なフィクションの短編小説です。
実在のお客様・店舗・出来事とは関係ありません。
眠れない夜に、少しだけ読んでもらえたら嬉しいです。
【深夜喫茶アオト】
第七夜 綴る夜
店の灯りを落とし始めた頃、雨が降り出した。
窓の外は、もう深夜の静けさに包まれていた。
俺はカウンターのグラスを磨いていた。
カラン、と氷が触れ合う音がする。
遠くで雷鳴が聞こえた気がした。
静かな雨音に、店の扉が開く音が重なる。
「いらっしゃいませ」
傘を畳む女性が一人、店内へ入ってきた。
肩にかかった髪の先が、少し濡れている。
「こんばんは」
控えめな声だった。
カウンターの奥の席に座る。
「何か温かいものを」
彼女は小さくそう言った。
「承知しました。何かお好みはありますか?」
「…特に。お任せします」
俺はブレンドを淹れる準備をした。
豆を挽く音が、静かな店内に響く。
コーヒーの香りが、ゆっくりと広がっていく。
湯気が立ち上るカップを彼女の前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口、ゆっくりと口に運ぶ。
その瞳は、何かを思案しているようだった。
テーブルの隅に、便箋と封筒、そしてペンが置かれている。
彼女はそれらをじっと見つめていた。
「手紙、書かれるんですか」
俺は尋ねた。
彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「ええ。でも、なかなか…」
言葉が途切れた。
「書くのが難しい手紙、ですか」
「はい。誰にも言えなかった、ありがとう、なんです」
そう言って、彼女は目を伏せた。
俺は何も言わず、ただカウンターの向こうで静かにしていた。
カチ、カチ、と壁の時計が時を刻む。
雨音は、まだ続いていた。
彼女はゆっくりとペンを手に取った。
便箋の上に、インクが走る音が聞こえる。
書き始めは、少し震えているようだった。
やがて、その手は落ち着きを取り戻していく。
コーヒーを一口、また一口と飲む。
時折、ペンが止まる。
遠い記憶を辿るように、天井を見上げる。
そしてまた、文字を綴り始める。
書いている間、彼女の表情は少しずつ変化した。
最初は硬かった顔が、少しずつ柔らかくなっていく。
微かな笑みが、口元に浮かんだように見えた。
「書けました」
彼女は顔を上げた。
その声は、少しだけ明るくなっていた。
「良かったですね」
俺は心からそう思った。
彼女は封筒に手紙を入れ、そっと閉じた。
宛先は書かれていない。
「これは、送らないんですか」
「ええ。これは、私だけの、ありがとう、なんです」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、雨上がりの空のように澄んでいた。
始発の時間が近づき、店内の空気が動き出す。
「そろそろ、行きます」
彼女は立ち上がった。
「ありがとうございました」
そう言って、彼女は封筒をバッグにそっとしまった。
雨は、いつの間にか止んでいた。
空には、薄明かりが差し込んでいる。
「また、来てもいいですか」
店の扉の前で、彼女は振り返った。
「ええ、いつでも」
俺は答えた。
彼女は小さく頷き、店の外へと歩き出した。
深夜喫茶アオトは、今夜も始発まで開いています。